ごあいさつ
ごあいさつ
はじめまして板金職人の下城亮太です。
いきなりですが私、この仕事が大好きです。
仕事が好き?と思われる方もお見えになられるとは思いますが本当です。
叔父の一言
勉強嫌いな私は、学校もろくに行かず仲間と遊んでばかりいました。
そんな私に叔父が一言「自分のこずかいは自分で稼げ」中学生の私に叔父はバイトに来いと声をかけたのです。
父親のいなかった私は、叔父の存在が怖かったせいもあり、「お願いします」と返事をしてしまったのです。
しかしこの会話が始まりで、職人下城亮太が誕生できたのです。
担任の一言と母親の顔
今の時代では考えられませんが、当時の担任は私が叔父の会社でアルバイトをするのを応援してくれていました。
そんなある日の進学を決める三者懇談会での会話です。
母親はこんな私にでも進学してほしかったのでしょう、担任に「どこか進学できるところは無いでしょうか?」と質問しました。
担任は「無いです、無いと思って働いた方が彼の為になると思っています」と言いました。
母親の悲しそうな顔は今でも忘れませんし忘れていけないと思っています。
担任の一言と母親の悲しそうな顔を見た私は本気で板金職人になる決意をしたのです。
仕事に打込めない日々
真面目に職人になる決意をしたはずの私ですが、まだ若く誘惑に弱い私は仕事が終わるとすぐに遊びに出かけてしまい寝不足の日々、
叱られてばっかりで仕事には身が入りませんでした。
そんな時に親方である叔父が、名古屋に建築板金の専門学校があるけど行くかと声を掛けてくれました。
しかし問題が、仕事が終わってからの週に3日の夜間学校だったのです。
当時は友達と遊ぶことが一番であった私は悩みました。
勉強嫌いで学生時代も休みがちだった私が、仕事を終えた後に名古屋まで三年間通い卒業できるだろうか自分自身不安でした。
そんな私を学校に通う事を決断させたのは半年先に入社していた4歳年上の兄の存在でした。
当時の職人の世界は歳も学歴も関係ない仕事が出来る人が上に行けると親方がよく言っていたのです。
その言葉の影響もあり、兄より上に行きたいと強く思っていた私は学校に行けば何かが変わるのでは無いかと思い入学しました。
現在も兄とは仕事をしております。
仕事では良きライバル・職人では一番の信頼・兄としては尊敬、私には頼りになる、お兄ちゃんです。
学校、職人仲間との出会い
3年間通う事に決めた私は会社の協力もあり何と無断欠席ゼロ、愛知県知事賞まで頂き、卒業することが出来ました。
生徒の年齢はバラバラでしたが、経験年数、立場などが同じということもあり良い刺激となり本気で仕事に取り組むようにもなりました。
学校帰りによく焼鳥屋により仕事の愚痴や将来の夢を語り合ったのを思い出します。
3年間一緒に勉強した仲間は卒業して18年経った今でも仕事にプライベートでも、お世話になっております。
学校に通えた事で技術も学べ、信頼できる仲間も出来た事に感謝しております。
結婚、独立
私の人生を変えてくれたといっても過言ではない、何時も私の事を支えてくれている妻との出会いです。
妻への思いをたくさん書きたいのですが恥ずかしいのでやめておきます。
ただ言えることは、妻を幸せにするために、仕事に励み23歳で独立、現在でも大好きな板金職人で
いられるのは妻のおかげと感謝しております。
三人の息子にも恵まれ幸せな日々に感謝しております。
我家の家訓 1に掃除 2に笑顔 34元気でおかげ様。
親方
私の親方は12年前に亡くなりました。
私がこの業界に入るきっかけ、独立が出来るまでの技術、人としての礼儀、仕事以外の事も教わりました。
親方に感謝の気持ちを「ありがとうございました」の一言を伝えられなかったのが残念です。
親方に褒められた記億は無く、親方に褒められたい、認められたいと思い親方の背中を追いかけていた気がします。
思い
時が立つのは早く気つけば職人歴24年、私は本当に天職に出会ったと感謝しております。
下城板金工業の屋号を引き継いだ私は、親方に教わった、板金屋とは人様と建物を雨風から守る事の教えを真摯に受け止め、お客様、仕入れ先、同業者、社員、地域から信頼していただける職人また経営者に慣れるように尽力していく次第でございます。
弊社はどんな仕事にでもお客様が満足していただけますように努めております。
すべての出会いに感謝して、日々努力、勉強し実践してまいります。
どうぞ末永くお付き合いさせていただきますようお願い申しあげます。